共通テストの国語(27) 古文──和歌の解釈①
さて、今週末はいよいよ共通テスト。国公立志望の皆さんは特に緊張も高まるかもしれない。残りの日々、当ブログでは国語問題のヒントを引き続きお届けしよう。
現代文が何とか得点できるようになったとしても、特に理系受験生にとって、目標点に到達するために最大の関門となるのは「古文」ではないかと思う。
古文の読解には古典文法の知識が必要だ。わたくしQ氏も必要とあらば古典文法の授業を提供しているが、今回の限られた紙幅では古典文法の要点講義までは無理だから、受験生の中に苦手の声が多い和歌の解釈に話題を絞ってお話ししたい。
「和歌がわかんない」というのは、古文の講師がそのつもりもないのについつい発してしまうオヤジギャグだが(化学講師の「銅はどうなる?」と双璧をなす「ナチュラル駄洒落」である)、和歌が「和歌る」ようになると、入試古文の苦手意識はかなり和らぐ。
本文中に出題された和歌の解釈手順は、およそ以下の通りである。
①何よりまず文法的に正しく、逐語訳(一語ずつ追うようにして正確に訳すこと)する。
②和歌特有の表現技法(特に掛詞・次に縁語・最後に枕詞や序詞)が使われていないかチェックする。特に掛詞は必ず探す。
③主語など、省略されている情報を補う。
④「作者の視点」を考え、いつ、どこで詠んでいる歌か考える。
⑤「何をテーマにし」「どのような気持ちで詠んだ」歌なのかを考える。本文に補足情報がある場合は、その情報を参照しながら考える。
⑥どうしても不明な語句があり、解釈の手がかりがつかめない場合は、問題の選択肢に示された現代語訳からからさかのぼって考える。
順に解説しよう。
以前のエントリーでQ氏も認めた通り、「文学的センス」にはかなり生まれつきのものがあるようで、センスのない人にはまったくないようだ。特に数理的センスと文学的センスがトレードオフ(両立不可)の関係になっているように思われる例が多い。
「だから和歌なんてわけ分からないのだ」という人がいるが、和歌を解釈する際、いきなり文学的センスにものを言わせて、パッと直感的に意味をつかめるわけではない。和歌の解釈が得意な受験生に聞いても、一読して最初から意味が分かるわけではないと認めるはずである。
解釈例として、2021年度(令和3年度)共通テスト国語 第1日程 第3問『栄花物語』の和歌を検討しよう。
第一の和歌。藤原長家(中納言殿)の妻が亡くなった後に、進内侍という女房から贈られた見舞の歌である。
契りけん千代は涙の水底に枕ばかりや浮きて見ゆらん
まず上記①のように、地道な「勉強」の上で身につけた古典文法の知識を使って、未知の和歌をなるべく正確に逐語訳するのが、必ず踏まなければならない手順である。きちんと正確に訳さないとだめで、ここで受験生が古典文法をしっかりやっているかどうかの差が出る(そんな殺生な…やってないんだけど…という諸君、やってることにして次に行こう)。
「逐語訳する」のだから、一語一語にちゃんと文法的な検討を加えた上で訳す。
「契る」=男女が夫婦の契りを結ぶ。
「けん」=過去推量(~た〈の〉だろう)の助動詞。下に体言「千代」があるから連体形。連体形の場合は婉曲用法と考え、ただ「〜た」と訳して問題がない。
「や」=疑問(~だろうか)もしくは反語(~だろうか、いや…ない)の係助詞。ここでは反語はおかしいので、疑問。
「らん」=現在推量(〈今ごろ〉~していることだろう)の助動詞。上に「や」があるから連体形(係り結びの法則)。
などの知識から、まず、
夫婦の縁を結んで過ごそうと誓った千年は涙の水底に枕ばかりが浮いて見えていることでしょうか
とでも訳せるだろう。
が、まだ何となく変である。
② 逐語訳しても、だいたいの和歌はまだ意味が分からない(古文の本文も同じである)。
ここで、和歌特有の表現技法というものがあったのを思い出すことだ。枕詞とか、掛詞とか序詞とかである。
そもそも、どれがどれだか覚えていない人もいると思うのだが、古典和歌の表現技法の中で一番大切なのは「掛詞(かけことば)」である。要はオヤジギャグであり、ダジャレである(「和歌はわかりますか」とか「陽極の銅はどうなるでしょう」とか「猿と戦う、蟹の運命やいかに」とか。そういうたぐいのやつ)。
が、ダジャレだといっても馬鹿にはできない。「掛詞」は「和歌の意味を二重化し、見る角度を変えると違った絵柄が見えるホログラムシールのような立体感を与える」テクニックとして多用される。さまざまな和歌を鑑賞し、当時の人の評価を読んでいると、掛詞が上手な和歌がうまい和歌なのだな、ということがよく分かる。
共通テストでは、まず掛詞を探す癖だけつければよい。細かく解説すれば縁語とか、序詞とかもあるが、特に理系の諸君は掛詞一発勝負で問題ない。それくらい掛詞が大切だからだ。
上の和歌に掛詞はあるか。これは自分の脳内の「ダジャレ回路」を利用して、一字一句検討しながら探すしかない。
「涙の『なみ』」と「無み(ないので)」
「浮き(て)」と「憂き」
が見つかった人、あなたはエライ! 両方とも古語のダジャレだから、比較的難度が高い。しかも「無み(形容詞の語幹+み=~だから)」は理系の諸君は知らないか、忘れてしまっている人も多いだろう。「瀬をはやみ(瀬の流れが速いので)~」という崇徳院の一首が思い出される。
この「涙=無み+だ」のように、単語の一部分を切り出して掛詞に仕立てる例も非常に多い。
歌舞伎の人気演目「白波五人男」に、
「身の生業(なりわい)も白波の…」(生計を立てていく方法も知らないので、泥棒稼業に踏み込んで何とか食いつなぎ…)の「白波(泥棒)」=「知らな(み)」
「人に情けを掛川から…」(人に情けをかけながら、東海道の掛川宿から…)の「掛け(がわ)」=「掛川」
などの名セリフがあるように、大衆が歌舞伎や、その後継ジャンルである時代劇に自然に親しんでいた昭和後期くらいまでは、掛詞の認知度は高かった。が、RPGが提供する無国籍ファンタジーの世界に浸って育つ現代の受験生諸君は、こういうことは「お勉強」として学ばなければならなくなっている。たまには歌舞伎を見たり、落語や講談や浪曲を聞いたりもしてみよう。面白いぞ。
…が、幸いなことに、この年度のこの和歌は、掛詞に気づかなくても解釈に何の問題もない(実際、過去問題集の現代語訳にも、この歌の掛詞は反映されていない例がある)。掛詞が分からなくても何とかなる場合も多いから、毎回、掛詞を探すだけ探す癖をつけよう。1首の和歌に2つの掛詞を使う例が非常に多い。
さて、この掛詞を加味して現代語訳を修正すると、
夫婦の縁を結んで過ごそうと誓った千年は(もはや)なきものとなってしまったため、涙の水底に枕ばかりが浮いて見えているほどの悲嘆(憂鬱さ)に浸っておられることでしょうか
赤字部分が、掛詞によって追加された意味を補った部分である。
この程度まで訳せれば、もう、ほぼ分かった感じがするでしょう。
「涙の水底に枕ばかりが浮いている」というのも、「妻を失った悲しみに泣いて泣いて泣き暮らし、上に枕が浮いてしまうほどの涙の量である」ということを言っているわけで、誇張表現であることが分かる。
弔問の場なのに、こういうひねった表現で、詠み手はさりげなく「和歌の腕前」を誇示しているのだ。教養のある人は、たとえ女房であっても、儀礼の場で即座に「レベルの高い」和歌を詠めなければ恥ずかしいような雰囲気だったらしい。和歌の応酬によって、どちらの方に機知や詩才があるか、さりげなく競争ないしはマウンティング合戦みたいなことをやっているのが、平安貴族というものである。
現代のSNSのやりとりみたいなものだが、いちいち添付ファイルとして和歌を詠まなければならないというのは非常に大変である。場面によってはかなりのプレッシャーだったようだ。
さて、Q氏の記述もかなり駆け足になるが、共通テストまで「和歌が和歌る」即席講座を続ける予定である。