共通テストの国語(23) 小説の注意点①──心情なんて読み取れるのか
さて、数日間話題がそれた。もう共通テストである。引き続き本番まで、共通テスト「国語」のヒントをお送りしたい。
国語で点が取れなくて困っている受験生諸君は、2022年12月にお送りした「早く読む方法」と「選択肢の絞り方」を一読してみてほしい。…って、いや、ま、別に読まなくてもいいけど。国語講師として、わたくしQ氏がネットで公開できるギリギリの部分まで放出したつもりである。
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さて、第2問の小説についても、速く読む方法や選択肢の絞り方は基本的に評論と一緒である。共通テストになってからは、本文は小説の一部分を1篇じっくり読ませ、読者による「ノート」の部分に他の文章を出題し、複眼的な読み方を促す…というつくりになっている。
小説については、大学入試では出題そのものが廃止寸前となっている。「解釈が多様で、正解をひとつに絞り切れない」というのが原因ではないかと思うが、文学的感性や鑑賞力を試す設問を試験から削除するのは、社会全体に向けて「文学は不要」宣言をするのに等しい。それは国語教育上、危機的によろしくない事態だとQ氏は認識している。
大学入試全体(東大国語が典型)では「文学的鑑賞力の査定は古文問題に統合する」のが流れだが、現代小説でしか味わえない奇妙な心の襞(ひだ)とか、近代小説特有の格調とかいうようなものが、ある種「ジャンル」として成立している以上、それら典型作品の鑑賞は、生徒に一度はさせるべきではないかと思う。音楽で言えば、バロック音楽だけ聴かせ、ロマン派もロックもジャズも知らなくてよろしい、というようなもので、偏っている。
そんな文学教育荒廃の中、大学入試センターは共通テストになっても第2問の小説を守ってくれているのが嬉しい。近年はマイナーな出典を求めて現代作家か、大正・昭和あたりのあまり知られていない作品を出題することが多いが、かつてセンター試験時代には夏目漱石・森鴎外・島崎藤村など、近代作家の重厚なパッセージをよく出題していた。直近では第1問評論の「ノート」部分で芥川龍之介、同じく第1問本文の引用で宮沢賢治が出題されるなど、「古い作家を出すな」という世間の風潮にあらがって、間接的にでも近代作家の文章を出題しようという意欲が見られる。Q氏には出題者のその努力の跡が見える。
さて、小説には登場人物の心情を問う問題がつきものである。この「心情が分からない」という受験生が意外に多い。確かにひとの心情というのは、同じ出来事を前にしても多様でありうるのだから、登場人物の心情の推測など無理だ、と決めつける受験生がよくいる。
が、人間同士にはなぜか不思議に「共感」が成り立つ神秘的な場面もある。そして、感情とは時としてかなり類型的なものでもあり、似たような場面では多くの人に似たような感情が襲ってくるという、おそらく生理学的基盤にもとづく条件反射に似た側面もある。感情は、私たちを生き生きとした唯一無二の個性の持ち主にもさせるし、ただ周囲の刺激にさらされた自動機械のような「反応装置」にもさせてしまう。
人々の感情の幅というのは、その「豊かな喜怒哀楽を経験する唯一無二の個性と、ただ環境の刺激に反応する自動機械とのあいだ」に存するものだと言えよう。わざと現代文的な書き方をしてみたが、受験生の皆さん、的確に翻訳できるかな。
要するに「個々人の感情は絶対的にオリジナルなもので、他人からは窺い知れないものだ」というのも、おそらく極端な意見なのである。「こういうことを言えば誰でも怒る」とか「こういう時はほとんどの人が悲しがる」という場面はやはりあるし、少なくとも他人のふるまいから想像できることが多い。そのような「誰でも感じているらしいこと」を共通の土俵としないことには、そもそもコミュニケーションがあまり成立していないはずである。小説は、「こういう時に、ひとはこう感じるのか」ということを知らせてくれる、多くの人にとっての「感情のシミュレーター」なのだ。
さて、ならばその感情を文中からどう読み取るか。Q氏がおすすめするのは「感情も論理的に読み取る」ことである。その説明は次回。